以下は、馬長勲(まちょうくん)先生・太極拳用語集の中で基本的なものを挙げている。
出典がわかるものについては、『太極拳譜』〔中国・人民体育出版社〕等を参考にして示した。
1.其根在脚、発於腿、主宰於腰、形於手指
〔Qi gen zai jiao fa yu tui, zhuzai yu yao, xing yu shouzhi〕
その根は、足裏にあって、脚で発して、腰で主宰し、手・指に現わす
武禹襄(ぶうじょう)の『十三勢説略』の中にある。脚から、順に上へ、そして、最後、手・指に届ける、という原理が示されている。太極拳は、中から外へ、下から上へのつながり、拡がりを大切にするので、手が、躯幹に先んじて動くことは無い。
五絶老人と言われた鄭曼青〔詩、書、画、医、そして太極拳の五つの分野で秀でていた〕は、「脚下無根、腰無主」〔Jiaoxia wugen, yao wuzhu、脚裏の根がなければ、そもそも腰で主宰できない〕のことばを残している。
2.守中〔shou zhong〕 ・ 中正安舒〔zhongzheng anshu、ちゅうせいあんじょ〕
まんなかを守る、すなわち、中定状態を保持することをいう。「守住中定、往開里打」〔Shouzhu zhongding, wang kai li da〕の口伝があるが、意味は、「中定状態を保持して、中から外に向かって打つ」である。「站住中定、往開里打」「站住中定、往外打」など、別な表現も伝わっている。「中土不離位」〔zhongtu buli wei〕も中定状態の保持をいう。なお、王宗岳の『太極拳釋名』の後半に、「進歩、退歩、左顧、右盼、中定」と「中定」の語が登場しているが、「中定」は、いわば、両脚に根が生えて、偏りが無いことをいうので、「其根在脚」が前提となる。
『老子』の第5章の末尾は、「不如守中」〔中(ちゅう)を守るにしかず〕と結ばれているが、その前段に「虚にしてつきず」とあるので、「守中」とは、実は、「守静」でもある。
3.内通外順 〔neitong waishun〕
身体内部を開いて、スムーズに通るようにし、同様、外形も、ねじれたり、つぶれたりしない。「自然通順」〔ziran tongshun〕の語もある。放鬆〔fangsong〕することによって可能となる。
「放鬆」は、耳にたこができるほど聞かされた語ではなかろうか。しかし、もしかして誤解していないだろうか?「放鬆」とは、決して、萎えてしまって縮こまっていることをいうのではない〔=鬆而不懈、song er buxie、「鬆」であるべきで、「懈」つまり、全くだらけてしまって、ぺっしゃんこの状態になってはならない〕。
「放鬆」の意識がないのは、問題だか、しかし反対に、「放鬆しなければならない!!」、という強過ぎる思いは、目的と結果が合致しておらず、「放鬆」の妨げにしかなっていない。自縄自縛状態である。したがって、意識過剰にならないよう、つまり、「似有意、似無意」〔si youyi, si wuyi、「意識は、あるようで、しかし、無いようで、ほどほどに」という意味〕が大切である。「放鬆」しなければならないと思っている間は、まだ、本当の放鬆状態からは遠い。 放鬆就是智慧〔fangsong jiushi zhihui , 放鬆は、つまり、智慧である〕。
身体内部が通順して、中正安舒であれば、それは、一定の放鬆状態である。結局、「鬆無止境」〔song wu zhijing、放鬆には、これでよい、というような限りが無い〕であるので、焦らずに上達を目指すべきである。
「心静体鬆」〔xinjing tisong〕の熟語については、周知のところであるが・・・
孫禄堂(そんろくどう)は、晩年、「鬆静」の要言があれば、他の万法は無用、と書き残している。ただ、その「鬆静」が最も求め難い、とも言っている。
王宗岳は、『十三勢歌』の中で、「刻刻留心在腰間、腹内鬆静気騰然」〔常に、心を腰のあたりに留めるならば、おなかが、「鬆静」して、気が湧き上がってくる〕と書いている〔注記:「気」とは、放鬆によって得られた感覚のことを指す〕。
拳論の中には、「静」と「動」の語の組み合わせは、多数みられる。一例をあげるが、武禹襄の『太極拳解』の後半に、「静如山岳、動若江河」〔静かなること、山の如く、動くこと、江河(揚子江や黄河)の如く〕とある。これは、一般のスポーツが、ただただ「動」を目的としているのに対して、太極拳では、「静」を重要視し、「動静」のバランスを大切にしていることの証明でもある。
楊澄甫(ようちょうほ)口授、陳微明(ちんびめい)筆録の『太極拳十要』の第十番に、「動中求静、動静合一」〔dongzhong qiu jing,dongjing heyi〕とある。
「以静制動」〔yi jing zhi dong、「静」で以て、「動」を制する〕は、太極拳の運用面での特徴の一つであるが、それは、太極拳が、心の平静を保って、人も、自身も傷つけない、「養身養気」〔yangshen yangqi〕の武術である、ということを意味している。
6.開合 〔kaihe、かいごう〕
武禹襄は、『十三勢行功要解』で、「気で以て、身を運び、スムーズに行き、心の従うままならば・・・屈伸開合聴自由・・・」と書いている。〔「聴」は、ここでは、まかせる、或いは、待つ、という意味〕
武禹襄の甥の李亦畲(りえきよ)の『五字訣』には、以下の一節がある。
気が下に沈み、両肩から背骨に入って、腰のあたりに注がれていく、上から下に向かうこと、これが、いわゆる「合」であって、腰から背骨へ、そして両腕に、さらには、手・指に伝わった場合、気が下から上へと行った時を「開」という。合、つまり「収」であり、開、即ち「放」である。開合がわかれば、つまり「陰陽」を知ることになる。
李亦畲は同じ『五字訣』の中で、「気は、収斂すべし、・・・吸で、〔合〕と為し、〔畜〕と為す。呼で、〔開〕と為し、〔発〕と為す」、 とも書いている。
以上、『五字訣』の中で、李亦畲が、武禹襄の説明を補足していることがうかがえる。
静が「合」、動が「開」でもあるが、いづれにしても、「開合」について、外形の動きとしてではなく、内功としての理解が望まれる。
7.虚整〔xuzheng〕
太極拳は、鋭敏さを養う知覚運動である。「全身を虚で整える」と言われても一足飛びには理解し難いのであり、徐々にしか理解のしようがない、そういう深い、高い概念である。「放鬆」のレベルをあげるほかない。
馬長勲先生によれば、「虚整」のためには、まず、全身を「軽霊」〔qingling、活き活きと軽やか〕にし、そして、「鼓蕩」〔gudang、(足裏の弾力を柔らかく使って、)バウンドさせること。注記:鼓蕩の元々の意味は、「鼓舞する」で太極拳と無関係である〕が要る、とのことだ。
『老子』の第16章に、「致虚極、守静篤。万物並作、吾以観復」〔虚を致すこと極まり、静を守ること篤く、万物並びおこれども吾以てかえるを観る〕とある。福永光司現代語訳では、「こころ虚しさの極みに達し、ねんごろに無為の静けさ守れば、万象のあらゆる動きも、それが道に帰っているのだと観る」となっている。
また、同じく、『老子』の第3章の中ほどには、「虚其心、実其腹、弱其志、強其骨」〔その心を虚しくし、その腹をみたし、その志を弱くし、その骨を強くする〕とあるが、無為自然に努めよ、と説いているのである。
「打点、不打人」の説明の中で、「三点一線」の方法を示しているけれども、係る「点」は、実在していない。また、「行云流水」の語もあるが、「水」は無形であり、雲も絶えず形を留めない。
馬長勲先生は、「用=実」〔使うことを「実」とする〕なら、「不用=虚」の関係性があるとおっしゃっているし、上達のステップは、鬆〔song〕→柔〔rou〕→虚〔xu〕→空〔kong〕→満〔man〕の順である。さらに、「虚領頂勁」は、通常、姿勢についての要領である、と解釈されているけれども、もう一つ、「相手との接し方を虚にする、ぶつからない」、というメタファーを含んでいるとのことで、自身の太極拳の技術向上に伴って、ことばに対する理解も深まる〔悟性が高まる〕、ということだ。
8.捨己従人〔she ji congren、しゃきじゅうじん 或いは しゃこじゅうじん〕
王宗岳の『太極拳論』の末尾の重要な一句。捨てるものは、何か?捨てるものは、己の主観であり、己の力だ。これらを捨てなければ、何も得られない。捨てることによって、得ることが可能。考え方は、『老子』にあるとおり。『老子』の第36章には、「之をちぢめんとほっすれば、必ずしばらく之を張る。・・・之を奪わんとほっすれば、必ずしばらく之を与う」とある。「以弱勝強」もまた、太極拳の特徴であるが、その根本思想は、『老子』の随所に見られる。
武禹襄の『太極拳解』に、「従人則活、由己則滞」〔cong ren ze huo,you ji ze zhi、人に従えば、則ち活きるが、己からでは、滞る〕とあり、また、「力従人借」〔li cong ren jie、力は人から借りる〕ともある。なお、ここで、「活、huo」とは、自由自在のことをいい、臨機応変な対応が可能なことをいう。
「順人之勢、借人之力」〔shun ren zhi shi , jie ren zhi li〕という読み人知らずの歌訣がある。意味は、相手の動き、姿勢につき従って、力は相手から借りる、ということである。
9.換力 〔huanli〕
「換力」とは、「拙力」〔zhuoli、せつりょく〕などの力を捨てることをいう。「力」には、「拙力」〔「拙」は、「巧」の反対語〕や「笨力」(benli)〔「笨」は、粗いの意〕、「僵力」(jiangli)〔「僵」は、「硬」とほぼ同様で、「こわばった力」〕などがあるが、太極拳では、このような「力」は不要。「換骨脱胎」(形式を保ちながら内実を変える)を目指す。放鬆〔fangsong〕に努めることによって、水のエネルギーのような、「勁」を獲得していくが、身法が大切であり、智慧が必要。
10.用意不用力〔yongyi buyong li、ようい・ふようりょく〕
楊澄甫口授、陳微明筆録の『太極拳十要』の第六番に登場しているが、よく知られた熟語であろう。意を用いる、とは「自身の内部を調整する」という意味を含んでいる。
鄭曼青は、「太極不用手、用手不是太極拳」〔太極拳は手を使わない。手を使えば、もはや太極拳ではない〕とまで言っている。したがって、「推手」は、実質的には「推脚」であるので、自分の脚裏の状態と相手の脚裏の状態を常に把握していなければならない。太極拳では、手・うでの力を先に使ってしまう、という習慣を改めなければならない。
中国語の「懂、 dong」は、「知る」「わかる」という意味だが、しかし、太極拳では、そのような平易な話ではない。「懂勁」は、自身の勁について明らかになることをいい、相手の勁についてわかることは、「聴勁」〔tingjing〕という。「聴勁」が「懂勁」の第一歩である。
懂勁就是懂太極拳〔勁を知る、ということは、つまり、太極拳がわかる、ということ〕。
「懂勁」の語は、王宗岳の『太極拳論』の前半と後半に登場している。
太極拳の技術に充分習熟するのが、第一段階〔=着熟、招熟、著熟〕で、その次の、第二段階が、この「懂勁」である。そもそも第一段階で、しっかりした「運動知覚」が前提となっているのであるから、第二段階のこの「懂勁」が高いレベルであることがわかるだろう。第三段階は、「神明」である。
『太極拳論』の後半、ほぼ末尾には、「懂勁した後には、ひたすら練りなさい、精度を高めなさい」、とあるとおり、懂勁のレベルには、容易に至らないということを知った上で努力しなければならない。
12.聴勁〔tingjing、ちょうけい〕
相手との接点を通じて、相手の勁の方向、速度、力量、質を感じ取ること、相手の脚裏の状態を察知すること。
「三位一体」〔sanwei yiti、さんみいったい〕も、馬長勲先生はよく口になさることばだ。①套路の練習〔動〕、②站樁功〔静〕、そして、③推手〔用〕の三つで一つであって、この三つを体験・練習してこそ太極拳をやっていることになる。推手を体験しなければ、懂勁や聴勁を理解することはできない。まずは、聴勁から。
13.化勁〔huajing、かけい〕
「化」は、変化の「化」。相手の勁力の方向を変えることや、勁力をそぐことをいう。『太極拳論』の「走」〔zou〕には、「化」〔hua〕が含まれている。『打手歌』の「引進落空」〔yinjin luokong〕は、「化勁」の典型であり、「牽動」〔qiandong〕は、そのきっかけ、フェイントであり、相手の脚裏の根を抜くように働きかけることをいう。
化力為招、化招為勁、化勁為気〔hua li wei zhao, hua zhao wei jing, hua jing wei qi〕という俗語があるが、これは、①力技をかわすのは、招式、つまり、こう来ればこう対応する、という一般の技であって、②その招式をかわすのは、勁、③さらに、その勁をかわすのは、気である、という意味で、これは、王宗岳のいう①着熟、②懂勁、③神明、という 技術段位にほぼ合致している。
相手との接し方は、①手をごくごく軽く相手と接して、②腰で調整し、③相手の勁を脚裏に降ろして相手とつながる。
① 手→ ② 腰→ ③ 脚裏
① 脚裏→ ② 腰→ ③ 手 の順
進: ①霑 zhan 、②化 hua 、③打 da
退: ①黏 nian 、②走 zou 、③化 hua
推手の練習においては、ケガ、転倒事故等が無いよう、安全に行うこと。
14.打点、不打人〔da dian ,bu da ren〕
点を打つのであって、人を打つ〔押す〕のではない。
「三点一線」の考え、やり方もあるとおり、相手との接触点については、これを極力軽くして〔不頂不丟、buding budiu〕、そして、①自分の支点と、②相手との「接触点」、更には③相手の後方、ないし下方向等を直線的に結ぶイメージを以て、その三番目の点を打つ。「不擁」〔bu yong〕の語もあるが、「擁」は、のしかかるような状態、つまり中定でない状態をいう。こういうことはしない。あくまでも軽く、そして、脚から〔=其根在脚〕が大切だ。「内勁自身用」〔nejing zishen yong、内勁は、自身の中で使ってしまう、完結する〕、というのも、他の武術では、考えられないことだが、馬長勲先生は、「以人為本」〔yi ren wei ben〕〔人を大切に〕を根幹に据えておられるので、このようにおっしゃるのだろう。
補足
馬長勲先生がお話される拳論や『老子』は、これを聞き取るのは、正直言って、大変難しい。しかし、馬長勲先生はいつもこうおっしゃっている。「『太極拳譜』の内容は、わからなくても読まなければならない。自身の太極拳の技術があがれば理解が深まる〔=悟性が高まる〕から」と。太極拳が人を変える、すなわち、人は、太極拳をする中で変わっていく、ともおっしゃっている。馬長勲先生の中には、どっぷりと老子哲学が浸み込んでいる。先生は、「きれいに死ぬために、日々稽古に励んでいる〔=逆修(nixiu、ぎゃくしゅ)〕」とおっしゃったこともある。太極拳の上達は、「逆転の発想ができるか」如何にかかっている、と言っても過言ではないかもしれない。
老子哲学の骨子は、「根本に帰る」であり、「逆説」である。
第25章の末尾では、「人法地、地法天、天法道、道法自然」〔道の根本的な在り方は、自然〕と、「根源に立ち返るべし」、と言っている。
第40章に「反者道之動、弱者道之用」〔根源に立ち返ることが道のいとなみであり、柔弱ということが道のはたらきである〕とある。
第78章には、水は弱い、柔らかいからこそ強いものに勝つ、とある。
湯浅邦弘は、『入門老荘思想』〔ちくま新書〕にて、以下の〔解説〕をしている。
世界の原初を『老子』は「道」と表現し、それこそが、人間の見習うべき理想のあり方だという。それは、言い換えれば、「無」の境地である。余計なものを持たず、ことさらな作為を施さない。「学」はどうか、この「道」のあり方に反して、学べば学ぶほど知識が増えていく。それは、一見いいことのようであって、実は、その人を不幸に陥れる。考えなくてもよかったことをあれこれと考え、思い悩む。「学を絶てば憂いなし」なのである。だが、『老子』は、無や無為と言いながら、何もするなと言っているわけではない。無為であるからこそ為さないことはない、という。少し言葉を補えば、無為にしているように見せかけることによって、実はすべてのことを成し遂げているという意味にもとれる。逆説的な、見方によっては、実に老獪な思想である。