馬長勲老師・口述『站樁』

馬長勲口述『站樁』〔作者:馬長勲老師〕の翻訳

 

 基本功は、しなければならないが、無極樁(ムキョクトウ)は、つまり「鬆(ソン)」と「静(チン)」を養い育てるモノであって、筋肉を訓練するモノではない。いま、一般に 站樁(タントウ)をするとなると、すぐに腕が痛いとか、足がだるいというコトが起きているが、そういうモノではない。あなたが、足をブルブルとわななかせながら(震えさせながら)練習しておれば、あたかもカンフーがあるように見えるかも知れないが、ソレは、太極拳とは何ら関係ない。

 

  太極拳は、決して「苦練」から出てくるモノではない。『ひとつ動けば、全身が軽やかさを備えねばならない』、このコトは、あなたが、大きな馬歩で立つコトとどんな関係がある、というのだろうか?あなたが、そのような練習をやって、足の筋肉がりっぱになったトコロで、ソレは推手をする時には軽やかさがないので、役に立たない。やり方が間違っているのであり、コレでは、誰もモノにできない。だからあなたが王家の皆さん〔筆者注:王家とは、王茂齊、王子英を指す〕の教え方を見れば、ソコで学んだ人は、三年か五年もやれば、カンフーが出てくる人がいるので、間違った方向に行っていない、というコトがわかるハズだ。

 

 まず、站樁の目的は、自身を協調一致させるコトであって、その後に勁(ケイ)を語るのがよい。このコトがわかれば、盤拳(トウロをこなす)でどのように動くべきかもわかってくる。そうでなければ、盤拳では、この「核心」をさがしだすコトもできないし、盤拳が意味をなさない。

 

 無極樁、あなたが、どのように立てば気持ちよい、かである。ひとつは、気持ちよい。もうひとつは、自身の気が、スムーズに整っているか、だ。呼吸にこだわる必要はなく、身体が気持ちよければ、ソレでよい。全身協調一致すれば、ソレでOK。ゆっくりと繰り返し、繰り返し、鬆(ソン)すれば、脚の裏にモノが出てくる。その後で、「接触点」をちょっと合わせたならば、ソレがつまり推手でのモノである。繰り返し立つコトによって、全身の勁がゆるんで、みな脚の方に行く。身体は立てば立つほど軽やかに、そして、カラになっていく。繰り返し、繰り返し鬆(ソン)するコトで、人は両脚の上に乗っている、というコトがわかり、そして、あなたは、モノをつかむコトができる。

 

 ただ、あなたの脚の裏にコレがあったとしても、ソレを手にまで運ばなければならない。あなたが何かにちょっと触れたとして、あなたの脚にあたかも電気を通したような感じがあるならば、ソレはみな脚裏のモノであり、局部的にブチ当たった、というコトではない。簡単であり、複雑ではない。難しい、といえば難しいのは、我々の習慣を変えるコトであって、また、我々の決まり切った練習のやり方を変えるコトである。

 

 カギとなるのは、つまり、鬆(ソン)であって、丹田の気がどうとか、そういうコトにこだわる必要はない。ホントに鬆開したならば、気は自ずと下に行くし、筋肉も皮も、五臓六腑も、大脳皮質もみな放鬆(ファンソン)するのである。

 

 鬆(ソン)は容易にはできないし、ココに大いに学ぶ意義がある。あなたは、ベッドに横たわった時、鬆(ソン)しているだろうか?ベッドから離れた感覚があるならば、それでようやく鬆(ソン)しているコトになる。このやり方は、複雑でもないし、神秘的でもないが、ちょっと面倒だ。

 

 その根っこは、脚にある〔其根在脚〕、脚裏に必ずモノがなければならない。脚裏に根っこが無ければ、「ふとももで発して、腰で主宰して、手・指に表す」べきところ、そうはならず、全くうでの力だけになってしまう。脚裏に根っこがあれば、脚裏の勁(ケイ)を手・指に運ぶコトができ、つまりソレが太極拳である。いわゆる「太極は手を使わない」〔太極不用手〕であって、手を使ってしまえば、もはや太極拳ではない。手の上に一つの点が現れるが、ソレは、必ず脚裏からの反応がソコに到ったモノでなければならない。

 

 もし。あなたがココに坐っているとして、脚に不具合があるならば、勁の使い様がないが、この時、モノはつまり臀部にあるので、ひとつ発力点を換えるコトになる。搭手の時、手はつまり支えであって、離れないしぶつからない。手がさらに変化するならば、力点も手の変化に伴い直ちに変わる。

 

 このようなやり方で進めるとしても、練習して身につけるのは、容易なコトではない。だが、この方式に基づいて、よき練習仲間を得るならば、それほど難しいコトではない。あなたがやぶれかぶれになって探し求めても、20年練習しても何もつかめないならば、実際には、あなたは、20年間太極拳を練習したコトにはならないが、やっているコトと目的が全くくい違っているからである。いつ一切が「カラ」になるか、ソレは、カンフーが「満ちた」時だ。

 

 いわゆる整勁とは、虚で勁を整えるのであるが、ソレは、決して「死樁」ではない。どのように使っているか、というと、私の力にあなたの力を加えているのであって、2人で1つを打つのだ。だから、この力〔効き目〕というのは、私の体重と比して大きいのだ。あなたが来れば、私〔訳注:原文では「彼」〕はあなたを待つし、あなたが来なければ、ソレまで。あなたが 鬆(ソン)すれば、私もまた鬆(ソン)する。点を加えるだけで、ちょっとした芸となり、技となり、つまり「活きる」のだ。楊禹廷先生、王子英先生は、このような小さな勁の使い方がとても巧妙で、先生たちと推手をすれば、まるで羊肉しゃぶしゃぶを夢中になって食しているかのように面白い。

 

 無極樁で立つ時間はドレくらいか?ソレは気持ちよい、を基準とする。あなたが10分立って、スムーズな感じ、そして気持ちよさがあるならば、10分がちょうどよい。立てば立つほど、技術は高まるし、感覚は深まっていく。一般にうまく立てるならば、40分をひとくぎりとする。あなたがホントにこのモノをつかんだならば、立つか立たないかは、どちらでもよくなる。身体がこの習慣を形づくるのである。

 

 なので、我々は太極拳を練習し、そして站樁を練習し、ソレを生活の中に取り組むべきである。そうすれば、我々の情操を養い、また、明るくて軽やかな気持ちを育んでいるのが太極拳である、というコトがわかるし・・・コレらはみな、放鬆〔ファンソン〕を通して得られるのである。

 ソレらを我々の日常生活の中に溶け込まさなければならない。つまり、動く、坐る、横たわる、歩く、食べる、飲む、大小便をする、寝る、という行為は、みなコレである。(= 一切が放鬆〔ファンソン〕である。)

 

 この境地にホントに至ったならば、拳をするとか、しないとか、どちらでもよくなる。身についたならば、ちょっと動けば、つまり「コレ」だ。練上げて身につけば、道を歩きながらでも練習できるし、道を歩くコトも練習だ。推手は、盤拳に同じだし、また、站樁である。この逆も言えるのであって、盤拳をこなすコトがそのまま推手であり、站樁でもある。站樁は、盤拳であり、推手である。

 飛行機内で、太極拳ができるだろうか?あなたが座ったその席であなたは、「黙拳」をやれる。あなたが黙拳をやれば、身体には盤拳の感覚がすぐに出てくる。

 

 当時、楊禹廷先生は、毎日黙拳をやっていた。私が先生のおウチを訪ねた時、奥様は、「あなたは、ソコに座ってて、話かけないでね。先生が、黙拳を終えてから、お話してね」とおっしゃっていたし、ソレ以上おっしゃらなかったが・・・私には、先生がソコで眠っているようにしか思えなかった。先生は、横たわって、毛布にくるまって、すごく落ち着いた感じだった。実は、先生は、ケイコ〔練拳〕していたのだ!この時、誰かがいたずらでちょっと先生に触れたならば、その人は、間違いなく飛ばされていたであろうし、当然、ろくでもない連中が必死になってたばになってかかったところで、全く相手にならなかった。コレは、「合手勁」であり、合わせば、すぐこの種の感知が働く。ソレは、一種の勁路〔ケイの通路〕であり、ケイコしなければわかりようがないトコロである。

 

馬長勲老師のプロフィール

 

 馬長勲先生は、その師から太極拳を伝授された著名な太極拳家であり、呉式太極拳第三代伝人劉晩蒼先生の太極拳の技芸を全面的に受け継いでいる。青年時代、馬先生は、刻苦して太極拳の研鑚をつまれただけでなく、拳理についても深く悟られた。多くの武術の先輩、呉式太極拳第二代伝人である名士・王子英、李文傑、張継之、楊禹廷先生たちから技芸、推手、理論を伝授され、影響を受け、真伝を受け継いでおられる。