私の太極拳観(馬長勲老師)

 太極拳は古い中国文化のなかでも掌中の珠のように大切なものである。その起源は道家の学説のなかに有り、その基礎理論は老子の思想(黄老思想)に有る。黄老思想は、太極拳に理論を与え、太極拳の養生術、技撃術とその芸術性に、活力ある霊(たましい)を与えたものである。太極拳の古い理論書(王宗岳著『太極拳論』)には、“太極拳は延年長寿を求めるもので、 技芸の抹梢に囚われるべきではない”、との論述がある。

 つまり、太極拳は単に拳術であるばかりでなく、太極図が図形で黄老思想を示しているように、体を動かす芸術として、その哲学思想を表しているものである。太極拳は理論を備えた技術であるとともに、人体力学の芸術と言えるものである。

◎太極拳とは:

 老子は、“反者道之動、弱者道之用” =前に向かって進むのではなく、後戻りしてもとに返ってゆくのが「道」の動きかたである。強くたくましいのでなく、弱々 しいのが「道」のはたらきかたである(金谷  治訳)、と言っている。これが太極拳の基礎理論であり、太極拳の各方面での指導はこのような弁証法的な思考様式によって行われるべきものである。

 また、太極拳論に曰く、“太極というものは無極から生まれて、動静のきっかけとなり、陰陽を生み出すもの(陰陽の母)である” =太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也、という有名な言葉がある。これは「太極」という抽象的な概念を正確に理解し、それを太極拳文化の哲学の中心に据えたものである。

◎太極拳の特徴:

 太極拳の、養生(ようじょう)にたいする考え方は素朴で、かつ自然である。老子が言う “気をそそげば柔らかさに至り、まるで嬰児のように柔らかくなることができる” という言葉に、養生の観点が示されている。太極拳は全面的に自然な気功である。それは人為的に呼吸をコントロールするのではなくて、自然な意識の働きを守ることが大切であり、これに違反することに反対する。

 静功(安静を保って行う練功法)であれ、動功(動きながら行う練功法)であれ、いずれも、「鬆ソン(ゆるめて)」、「柔ロウ(やわらかく)」、「虚シュイ(力まず)」、「空コン(体の中を空(から)にして)」、精神を嬰児のように活発に保ち、自然であり、一つのことに集中することができることである。

 太極拳は、高度で優雅な芸術であり、中国の絵画、 書道、京劇、中国盆栽などと同じように、深い、中国的な芸術性を備えているものである。“静かなること山の如し、動くこと大河の如し” の気勢と、“静を保って動に触れれば、動もまた静の如し” という表現は、通常の言葉では言い表せない境地で、体にしみわたる趣(おもむき)を持つものである。太極拳の芸術性は、 “虚を極め、静を専ら守る” にあり、それを、形と意識を適切に組み合わせて表わすことにある。

◎太極拳推手とは:

 太極拳は、独特な理性を備えた武術である。一般に、拳術(武術)は、原始時代の格闘技から始まり、格闘の経験を総括して技術を向上させたもので、それは、力、速度、テクニックを互いに比べ合うものである。 太極拳の戦術思想はこれに反するもので、それは、”自分を捨てて相手の力を借りる(捨己従人)”、“静を保って動を待つ(以静待動)”、“機に応じて変化する(随機応変)”、“柔で剛に克つ(以柔克剛)”、“どの場所でも、 有利な態勢をとる(処処因勢利導)” などに示される。

 太極拳は相手の心理反応と互いの運動力学を巧妙に用いて、相手のバランスを失わせ、自身の力量、速度、テクニックで “4両の力で千斤に克つ” =小さな力で大 きな力に克つ、という道理を用いるものである。

 また、“人と争うことがないから、天下に彼と争う ことができるものはいない” 夫唯不争、故天下莫能与之争(金谷 治 訳)という立脚点に立つものである。

 老子のこの哲学思想は、太極拳技術の魂(たましい)そのものである。ただし、残念なことに、一つの “拳” という字で、どれだけ多くの人が脇道にそれる誤りを犯していることだろうか。

 永年練習を積んでも入門の域に入れず、“争わない” ことの弁証法的な道理を悟ることができないために、太極拳の奥深い内容を理解することができない人がどれだけ多いことか。拳論では、“武芸を志す人が10人いても、そのうち9人は意味が分かっていない” と憂え嘆いている。

◎さらに、推手について:

 太極推手は,2人で行う太極拳の独特な練習形式である。太極拳の套路と有機的に結合していて、套路= “体”、推手= “用” という “体と用” の二つが結合するものである。技撃の意味から言えば、推手は、形=套 路と実戦をつなぐもの(架け橋)である。推手を練習することで、高度な敏感さを養うことができて、一瞬の軽い接触のなかで、お互いの意識が交錯し、相手の動作の方向を感知し、相手の重心をコントロールしてバランスを失わせる、拳論で言うところの、 “相手は自分のことが分からない、自分だけが相手を知ってい る”人不知我、我独知人、という状態を作ることである。太極推手は、決してお互いの “生(なま)” の力を比べ合うのではなく、自分自身の “拙力(せつりき, 訓練されていない拙い力の使い方)” を無くして、触れれば即、力を発する機会に乗じ、自分の最小の力で相手の方法に克つことである。

 推手では、練習する2人はお互いに苦痛な体力訓練をする必要がなく、推手の練習を通じて套路動作の意味を理解することができる。そのことによって套路の技術を飛躍的に進歩させることができるものである。

 但し、推手は技術の訓練をするだけではなく、さら に、高いレベルの練習をすることに意義がある。推手の高い段階に進むためには、文化的素養と道徳情操を高めることが必要となる。1人の武術を学ぶものとして、技術レベルと文明理性の修養のレベルが、時には同じレベルであることもあるが、多くは文化的修養のレベルが低すぎる場合が多い。この場合、太極拳を修 行するのが難しく、学んでもその理を悟ることが出来ず、太極拳の道に入門することが難しいことになる。

 また、推手で勝負心を捨て去ることができないと、いつも強い力で相手と争い合うことになり、その結果、自然と “己を捨てて相手に従う”、“相手の力を引き込んで外す”、“相手の力を借りて、相手を打つ” などの推手技術の妙味を発揮できなくなり、ただ、推手の4つの病(頂、匾、丟、抗)を犯していることになる。4つの病を知らず、本能的な能力にテクニックを加えただけであれば、推手は角力(すもう)になってしま い、太極推手の妙味がなくなってしまう。王宗岳は『太極拳論』のなかで,“本旨は、己を捨てて人に従うことである、多くの人は、近くを捨てて遠くを求める誤りに陥り、手元で1厘の間違いを犯せば、その先に千里の誤りとなる” と言っている。これらは、率直で肯定できる記述である。

◎太極拳と推手のさらなる発展を:

 私は、太極拳を一生懸命学ぼうとしている友人の皆さん方が、古い拳論をよく研究していただくことを希望します。私は、強張った教条を言っているのではなく、皆さん方のなかで、先人の理論を十分に消化して、さらに発展的な意見が生まれることを望んでいるものです。もし、先人が拳論で示してきた内容から逸脱してしまうと、推手はただ野蛮で、角力のようになり、推手を研究する必要もなく、太極拳と推手の形式と内容を失ってしまうことを恐れるものです。

 私は、太極拳の熱心な有識者である皆さん方が、拳論が言っている “天下の豪傑は延年長寿を求めるのであって,技芸の抹梢に囚われるべきではない” ということを本旨として、この貴重な文化遺産である太極拳を世界に向かってさらに発展させてゆくことに、皆さんのご尽力を賜りたいと願うものであります。 以上